鞆の浦は、いくつかの島と陸地がつながって一つの土地になったようです。鞆の浦の「ささやき橋」は広島県福山市鞆町後地にあります。密語橋、私語橋、囁語橋などとするものもあります。今回はささやき橋の由来について、諸説をご紹介します。
伝説1「川のささやきの音」
1100年頃までは入江にかかる長い橋でしたが、やがてささやきの音もしなくなりました。1640年頃に「ここに橋のあったことを後世に伝えたい」と石で橋をかけなおしました。1683年頃には現在見られるものと同様の橋でした。
伝説2「密かに人を売る鞆源左衛門」
昔、鞆源左衛門という名の人売りがいました。彼は通りかかる人々を巧みに誘い出し、この橋の下で待ち合わせ密かに人を売っていました。そのため、この橋はささやきの橋と呼ばれるようになりました。
伝説3「密かに中将の子を売った中嶋源左衛門こと鞆源左衛門」
ある人の話によると、鞆源左衛門という人物は実は中嶋源左衛門という名前で、古城山の乾の方に住んでいる人でした。彼が何者かしらの中将の子を売ったことが明らかになり、最終的に彼は刑罰されました。その霊が度々浦の人々を困らせたため、恐怖を感じた人々は源左衛門という名前さえも避けるようになりました。それが鞆源左衛門の名前が今どこにも使われていない理由だと、人々は言っています。それでも、彼は武士の魂を持っていて、何とかなるだろうと思い、受け入れて、最終的にはその事態に適応しました。それでも、浦の人々は非常に恐怖を感じており、今日に至るまで、鞆の浦にその名前を持つ人はいないといいます。
伝説3の尾びれ
なぜそんなことを信じる必要があるのかと言って、「源左衛門」という名前を名乗った人がいました。しかし、その人も結局は刑罰を受けました。そのため、鞆では以後、この名前を付ける人はいません。
伝説4「遊女の囁き声」
橋の下には遊女などが住んでおり、通りかかる人々の袖をつかんで囁き声を聞かせることから、その橋は囁語の橋と呼ばれるようになりました。
伝説5「江浦と武内臣和多利の恋愛中のささやき声」
ある話によれば、応神天皇の16年に百済から博士の王仁が経典を持って来た時、鞆の駅館に江浦という美しい官妓がいました。彼女は接待の公吏である武内臣和多利と恋に落ち、毎晩橋の上でささやき声を交わし、また橋のたもとで別れを惜しみました。しかし、二人の行為は度が過ぎており、最終的には職務怠慢の罪に問われることとなりました。それが密語の橋と呼ばれる由来となりました。
伝説5の解説
日本書紀によると、応神天皇即位16年は405年頃とされています。
関係は不明ですが、地区名として「江之浦町」があります。またバス停留所として「江の浦」があります。
伝説5の付随「江浦と武内臣和多利の死後のささやき声」
しかし、すぐに上官がこのことを知り、密会を止めるように忠告しましたた。しかし二人はそれを止めることができず罪に問われてしまいました。二人は抱き合えうことができないように後ろ手に縄で縛られ、海に沈められてしまいました。その後、ある噂が広まり始めました。橋のたもとで毎晩、和多利と江浦の「ささやき声」が聞こえるというのです。そして誰ともなしに、この橋を「ささやき橋」と呼ぶようになりました。時が経ち、鞆の「七島」も地続きになりましたが、この悲恋を語り継ぐために、地元の人たちが橋のあった場所に碑を建てました。それが現在の「ささやき橋」です。
伝説5の付随の解説
鞆の浦を七島と呼んでいたのかは定かではありませんが、圓福寺のある大可島または鯛ケ島、鞆城趾や鞆城山公園や福山市鞆の浦歴史民俗資料館のある中島、淀媛神社のある明神の島、中洲の島または中ノ洲、海にシキビ岩の残る能島または野島については、地続きとなっているようです。玉津島神社のある玉津島、無人の洲軽島または津軽島で「七つの島」と表現しているものもあります。ここには仙酔島、弁天島、皇后島は含まれていません。
まとめ
ささやき橋の由来について、以下の伝説をご紹介しました。
- 川のささやきの音
- 密かに人を売る鞆源左衛門
- 密かに中将の子を売った中嶋源左衛門こと鞆源左衛門
- 遊女の囁き声
- 江浦と武内臣和多利の恋愛中のささやき声
- 江浦と武内臣和多利の死後のささやき声
これらの伝説は時間とともに増え、変わっています。経緯の実際はわかりませんが、過去の人々の生活や文化を今日に伝える一つの記念碑と言えます。
参考URL
https://www.fukuyama-kanko.com/travel/tourist/detail.php?id=28
https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/site/miryoku2023/291684.html
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