福山市出身で医学校兼病院の院長となったり、北方領土を踏査した寺地強平をご紹介します

福山市のエトセトラ

寺地強平は漢方医学から蘭方医学への道を切り開き、教育と開拓にも貢献しました。彼の生涯と業績を探求します。

漢方医学から蘭方医学の道へ

寺地強平は文化6年(1809年)、福山藩士・寺地幸助の次男として生まれました。号は舟里といいます。漢方医学を学び、京都で開業しました。その後、蘭方医学を学ぶため坪井信道に入門しました。緒方洪庵とともに学びました。福山に帰郷し、自宅で蘭書を講義しました。

当時、天然痘が流行していました。一方で、牛の病気である牛痘に罹患した人は天然痘に罹患しないことがわかってきました。そこから天然痘ワクチンが開発され、種痘すなわち天然痘の予防接種によって天然痘を予防する道が開かれました。

寺地は、嘉永2年(1849年)に緒方からもらった種痘を自らに実施し、また福山地方でも実施し多くの命を救いました。

誠之館で教授

寺地は天保14年(1843年)、当時の福山藩主・阿部正弘によって江戸に召し出され、蘭書を講義しました。安政2年(1855年)に誠之館が設立されると、洋学寮教授となります。

東蝦夷の開拓策を答申

江戸時代中期から後期にかけて、日本では蝦夷地への関心が高まります。蝦夷地とは、現在の北海道のことです。この頃、ロシアは極東への進出を強めていました。これをロシアの南下政策といいます。日本もこれに対抗する必要がありました。

安政3年(1856年)、寺地は阿部正弘の命を受け、関藤藤陰らとともに東蝦夷を踏査し、開拓策を答申しました。

同仁館の開設

明治2年(1869年)、福山藩は福山西町字築切に医学校兼病院である「同仁館」を開設しました。寺地は校長兼病院長となり、広く住民に開放しました。

同仁館の廃止と死去

明治4年(1871年)、福山藩の廃藩に伴い、同仁館は廃止されました。そして明治8年(1875年)、寺地は66歳で死去し福山木之庄村に埋葬されました。

アクセス

誠之館のあった場所は、広島県福山市霞町1丁目10付近です。石碑があります。

同仁館のあった場所は、広島県福山市伏見町4付近です。石碑があります。

寺地の功績を称える石碑のある場所は、広島県福山市丸之内1丁目9付近です。

寺地強平の墓の場所は、広島県福山市木之庄町4丁目4-5です。

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