広島県福山市にかつてあった藺町は福山城の南東に位置し、藺草を売ったり買ったりする地域でした。当時の名残は見つけられませんでした。
藺町とは?
藺町は、福山城の南東にあった城下の町人屋敷地です。藺町の北には、畳表を扱う商人が住む「神島町」がありました。町名は六斎市で藺という植物を売買したことに由来します。「井町」と書かれることもあります。
藺町の大きさは、117間余り(約213メートル)で、面積は1,623坪(約5,367平方メートル)でした。また、町の人口は、明治21年には270人、大正6年には306人でした。
藺とは?
藺は、「い草」とも呼ばれる湿地や水田などに生える草の一種で、高さは約1メートルになります。茎は丸い形をしていて、葉は鱗のような形をしています。夏になると、緑色と茶色が混ざった色の花を咲かせます。
藺の茎は、畳の表面を作る材料として使われます。藺の花茎の中にある白い髄と呼ばれるものは、灯心として使っていました。灯心とは、ランプの中で燃える部分のことです。大河ドラマなどで夜灯として使われているのを見たことのある人も多いと思います。
つまり、藺は昔の人々の生活にとって、とても重要な植物だったのです。
六斎市とは?
六斎市とは月に6回開かれる定期市のことを指します。昔の日本では、特定の日に市が開かれ、人々が集まって商品を売買したり、情報を交換したりしていました。その中でも、毎月6回定期的に開かれる市を「六斎市」と呼んでいました。
1640年(寛永17年)には、それまで大手門前で開かれていた六斎市を、神島町で開くよう場所を変えています。神島町の付近には、福山城に近い順で天下橋こと本橋と、木綿橋こと新橋が入川の上に架けられていました。神島町の隣にある藺町も、六斎市の日にはにぎわいをみせていました。
この市場では、農産物や手作りの商品などが売られ、人々が生活必需品を購入したり、新鮮な情報を得たりしていました。また、市場はコミュニティの中心地ともなり、人々が交流を深める場ともなっていました。
このように、六斎市は人々の生活にとって大切な場所で、コミュニティの絆を深める役割も果たしていました。今でも、地域の祭りやイベントで市が開かれることがあります。
藺町の現在
藺町は、1975年に福山市昭和町となりました。当時の名残は見つけられませんでした。
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