広島県福山市は、日本で早いうちから小学校教育が始まった場所です。福山の啓蒙所と師範学校の歴史を探ります。これらの教育機関が日本の初等教育の発展にどのように影響を与えたかを詳しく解説します。
啓蒙所の設立とその役割
福山は、日本で早いうちから小学校教育が始まった場所です。その理由は、「啓蒙所」という教育機関が大きな役割を果たしたからです。
啓蒙所とは、明治時代の初めに福山藩の重要な役職にいた岡田吉顕が提案した新しい教育の考え方を引き継いで、窪田次郎たちが作った教育団体「啓蒙社」が作った学校のことを指します。
この「啓蒙社」は、当時としてはとても新しい考え方、つまり「四民平等」の考え方を大切にしていました。「四民平等」とは、男性でも女性でも、お金持ちでも貧しい人でも、みんな平等に扱うという考え方です。この考え方に基づいて、啓蒙社は7歳から10歳までの子どもたちに、性別や家庭の経済状況に関係なく、基本的な教育を受ける機会を提供しました。
啓蒙所の普及とその影響
最初の啓蒙所は明治4年に深津村の長尾寺に開設されました。その後、明治5年8月までに、福山藩の領域を中心に83の啓蒙所が設立され、通学生は合計で5,095人に上りました。
そして、学制頒布後の明治5年10月、小田県の権令である矢野光儀が、啓蒙所を小学校とみなすという告諭を出しました。これは、啓蒙所が小学校教育の基礎を築いたということを認めるものでした。
さらに、翌年の明治6年8月には、文部省の役人が福山の小学校を視察しました。その役人は、「啓蒙所には文部省も聊か先手を打たれたるの感あり」と賞賛しました。これは、啓蒙所が小学校教育の発展に大きく貢献したということを示しています。
教員養成のための師範学校の設立とその変遷
日本の小学校教育が広まる中で、教師を育てるための学校、つまり「師範学校」が必要になりました。その一つが、明治8年に福山東町に設立された「小田県師範学校」です。その後「広島県公立師範学校分校」「広島県福山師範学校」と名前を変えましたが、明治12年には閉校となってしまいました。
それから時間が経ち、大正11年になって「福山師範学校」が再び開校しました。この学校は霞町尋常小学校内の仮校舎で開設されましたが、昭和7年には再び閉校となりました。福山師範学校の生徒は「広島県広島師範学校」改め「広島県師範学校」に移動しました。現在の「広島大学教育学部」のルーツの一つになっています。
参考URL
https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/koho-detail50/koho-202007/190307.html
https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=117060
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