2つの「野上村」と「野上町」「古野上町」「沖野上町」

野上は、福島正則による検地によって制度化された「村」の一つです。この記事では、野上村の由来や歴史、そして福山市古野上町、福山市野上町、福山市沖野上町の変遷について解説します。

椙原保

慶長6年(1601年)に福島正則が安芸国と備後国を検地しました。これは福島検地や慶長検地と呼ばれることがあります。検地とは田畑・宅地の測量調査のことで、これにより藩の行政的な単位たる「村」が制度化されました。それまで椙原保と呼ばれていた地名は、本庄村と野上村に分けられました。

野上村

野上村には常興寺山がありました。元和8年(1622年)に水野勝成がその地に福山城を築く際に接収され福山と新しく地名が付けられました。

野上村の住民は、古野上すなわち現在の古野上町ふるのがみちょうあたりに移住し、そののち城下町の拡大でさらに七軒屋に移住しました。同時に城下町を拡大するのに盛んに新涯造成を行います。そして、正保4年(1647年)頃に完成させた南西の新涯地に野上村と名付けました。

江戸期から明治22年までの村名でした。備後国深津郡野上村、福山県野上村、深津県野上村、小田県野上村と変遷します。明治7年に野上新涯村を合併します。そして岡山県野上村、広島県野上村と変遷します。

明治22年から明治31年までは深津郡野上村、明治31年から大正2年までは深安郡野上村という自治体名でした。

野上新涯村

江戸期から明治7年までの村名でした。備後国深津郡野上新涯村、福山県野上新涯村、深津県野上新涯村、小田県野上新涯村と変遷します。明治7年に野上村の一部となりました。

福山町野上

大正2年から5年までの福山町の大字でした。

福山市野上町

大正5年からの町名です。大正7年に一部が沖野上町と古野上町と地吹町と御門町と松浜町となりました。昭和40年に一部が道三町と光南町と地吹町となり、同時に光南町と沖野上町の各一部を編入しました。

福山市古野上町

もとは福山市野上町の一部でした。大正7年からの町名です。昭和40年に一部が霞町と西桜町となり、同時に古宮町ふるみやまちと本庄町と地吹町の各一部を編入しました。

福山市沖野上町

もとは福山市野上町の一部でした。大正7年からの町名です。昭和40年に一部が野上町と光南町と緑町と御門町と花園町となりました。昭和58年からは現在の形となりました。

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