山陽新幹線延伸開業による福山駅周辺の変化

福山市の交通

2024年3月16日に北陸新幹線が金沢駅から敦賀駅まで伸びました。様々な問題はありますが、地域の経済を発展させる大きなステップで大変喜ばしいことだと思います。今回は1975年3月10日に山陽新幹線が岡山駅から博多駅まで伸びた当時の、広島県福山市にある福山駅周辺の変化についてご紹介します。

山陽新幹線延伸開業前の福山駅周辺の様子

1970年以前、山陽本線は地上の平面に敷かれており、その北側と南側の地域を行き来するためには、いくつも設置してある踏切を通るしかありませんでした。しかし、1950年代から60年代にかけて、日本の経済が急速に成長し、交通量が増えました。

特に、山陽本線は西日本を東西に結ぶ重要な交通路線であり、列車の本数が増えるにつれて、踏切での渋滞が問題となっていました。

その頃、山陽新幹線の建設と山陽本線の高架化が計画されました。福山駅周辺には山陽新幹線と山陽本線の2つを通すための土地がなかったため、二重高架構造が採用されました。

福山駅周辺における二重高架構造とは?

福山駅周辺における二重高架構造は、山陽新幹線と山陽本線が同じ敷地内で、山陽新幹線を3階、山陽本線を2階として独立して運行できるようにしたものです。その結果として福山駅は非常に珍しい三層構造の高架駅となっています。また、山陽本線での車窓からの景色が構造物に囲まれたものであることから、福山要塞と呼ばれることもあります。

高架化の実現に向けて

福山市東深津町辻の坂から、芦田川左岸堤防までの約3,500メートルの区間で高架化工事が行われました。1970年より徐々に踏切の廃止や工事が始まり、1972年には福塩線が高架化され、山陽本線の上にあった福山陸橋が取り壊されました。1973年と1974年には山陽本線も高架化されました。

福山駅の駅舎については、1970年当時、駅舎は古くなっていて、新しくする必要がありました。そこで、山陽新幹線、山陽本線、福塩線の3つの路線が一緒になることをきっかけに、1974年に福山駅の駅舎が新しくなりました。

ついに山陽新幹線停車

1975年3月10日に山陽新幹線が岡山駅から博多駅まで開通し、福山駅にも山陽新幹線が停車するようになりました。

これにより、踏切による渋滞が解消され、通勤や旅行がより便利になり、地元の経済や観光も活性化しました。また、移動にかかる所要時間が短くなりました。福山から新大阪まで、特急では3時間かかっていたのが、新幹線では1時間20分になりました。福山から東京まで、特急では10時間30分かかっていたのが、新幹線では4時間30分になりました。

一方、開業区間の需要の細さから「東海道新幹線の先細りする延長線」と揶揄されることもありました。また1973年のオイルショックをきっかけに高度経済成長が終わり、日本経済が低成長期へと移行していました。なので、東京オリンピックで歓喜一色だった1964年の東海道新幹線開業時とは異なり、手放しでは喜べない状況でした。

さらに特急列車や急行列車が激減したことから、山陽本線を中距離や長距離で利用していた乗客にとっては必ずしも喜ばしいことではありませんでした。乗り換えが必要となったり、運賃が高くなったためです。

参考URL

都市施設(都市高速鉄道)の概要 - 福山市ホームページ

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