ドイツ出身の医師・シーボルトも福山市・鞆の浦に訪れていた!

福山市の文化

ドイツ生まれのシーボルトは、日本の医学と文化を世界に広め、東洋と西洋をつなぐ橋渡しの役割を果たしました。そんな彼も、広島県福山市にある鞆の浦に足を踏み入れたことのある一人でした。今回は、彼の業績とともに、鞆の浦に訪れた時の様子をご紹介します。

日本の医学と文化を世界に広めたシーボルト

フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトは、1796年にドイツで生まれまし。彼は医者の家族に生まれ大学で医学を学びました。して、1823年に日本に来て、長崎の出島でオランダ商館付け医師として働き始めました。彼は長崎で「鳴滝塾」という学校を開き、そこで西洋医学(蘭学)を教えました。彼の教えは、たくさんの日本の医師に影響を与え、日本の医学が進歩するのに大いに貢献しました。

シーボルトは日本の自然や文化にとても興味があり、それらを研究して、その情報をヨーロッパに広めました。彼は日本の植物や動物、風俗などを詳しく調べて記録し、その情報を元に『日本』という本を書きました。これらの活動のおかげで、シーボルトは日本研究の第一人者として世界中で知られるようになりました。つまり、彼は東洋(日本)と西洋(ヨーロッパ)をつなぐ橋渡しの役割を果たしました。

シーボルトの鞆の浦訪問

1826年、シーボルトはオランダ商館長と一緒に江戸に行き、帰り道に鞆の浦に立ち寄りました。彼が乗っていた船「日吉丸」は5月17日の深夜に仙酔島の近くに到着し、翌日の朝に鞆の浦に入港しました。シーボルトたちは昼頃に鞆の浦に上陸しました。

シーボルトは鞆の町を散策し、「福禅寺・対潮楼」や「医王寺」などの場所を訪れ、鞆の草花や昆虫などを観察しました。そして「大変きれいな町並み」「活気にあふれた町」「たくさんの小売店がある」あるいは「心から迎えてくれた」と日記に記しています。

シーボルトはオランダに帰るときに、「備後鞆土産小松寺庭松之図」という版画を持ち帰りました。この版画は今、オランダにある国立民族学博物館に保管・展示されています。5月18日の夜には、30隻の引き舟で港外に出て、無事に長崎に向けて出帆しました。

日本とヨーロッパをつなぐシーボルトの生涯

その後、シーボルトの日本での活動は一時的に止まりました。1828年、彼が日本から帰国する直前に、日本の地図などを持ち出そうとしたことが発覚しました。その結果、シーボルトは幕府から国外追放と再入国禁止の処分を受けました。しかし、その後の日本とオランダの修好通商条約により、彼の国外追放は解除され、1859年にシーボルトは再び日本に来ることができました。

シーボルトは再来日後も日本研究を続け、1866年に70歳で亡くなるまで、その業績を広め続けました。彼の功績は今でも多くの人々に認識されており、彼が築いた東洋と西洋の架け橋は今もなお続いています。つまり、シーボルトは日本とヨーロッパをつなぐ大切な役割を果たし続けたのです。

まとめ

シーボルトの生涯は、東洋と西洋の間の橋渡しとしての役割を果たし、日本の医学と文化を世界に広めることに貢献しました。彼の業績は今日でも認識されており、彼が築いた架け橋は今もなお続いています。そんな彼も、鞆の浦に足を踏み入れたことのある一人でした。

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