福山市の助七ガード北交差点の由来とその歴史を探ります。山陽本線と山陽新幹線の二重高架構造から生まれた助七ガードの誕生背景に迫ります。
助七とはなにか?
蓮池(どんどん池)から流れている吉津川は、別名、蓮池川、助七川、外堀川と呼ばれています。助七ガード北交差点の東に流れる川がそれにあたります。
この川は、水野勝成の時代に神谷治郎が整備したうちの一つです。神谷の兄の名前は「助七郎」です。ここから名前がついたのかもしれません。
助七ガード誕生の背景
かつては、山陽本線は地上の平面に敷かれており、その北側と南側の地域を行き来するためには、いくつも設置してある踏切を通るしかありませんでした。1950年代から60年代にかけて、日本では高度経済成長が進み、交通量が増えました。
特に、山陽本線は西日本を東西に結ぶ重要な交通路線であり、列車の本数が増えるにつれて、踏切での渋滞が問題となっていました。
助七ガード誕生
その頃、山陽新幹線の建設と山陽本線の高架化が計画されました。福山駅周辺には山陽新幹線と山陽本線を通すための土地がなかったため、二重高架構造が採用されました。
福山駅周辺における二重高架構造は、山陽新幹線と山陽本線が同じ敷地内で、山陽新幹線を3階、山陽本線を2階として独立して運行できるようにしたものです。その結果として福山駅は非常に珍しい三層構造の高架駅となっています。また、山陽本線での車窓からの景色が構造物に囲まれたものであることから、福山要塞と呼ばれることもあります。
もともと南北に走っていた道の上に高架ができたことによって、助七ガードができました。
アクセス
助七ガード北交差点の場所は、広島県福山市三吉町3丁目7付近です。
参考URL
https://www.jsidre.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2016/03/keisai_53-3hito.pdf
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