大伴旅人の心情を映す万葉集:鞆の浦と天木香樹を舞台にした悲しみの物語

福山市の文化

広島県福山市の鞆の浦を詠んだ和歌に「吾妹子之わぎもこが 見師鞆浦之みしとものうらの 天木香樹者むろのきは 常世有跡とこよにあれど 見之人曽奈吉みしひとぞなき」というものがあります。今回はその和歌に込められた思いやその背景について詳しく解説します。

大伴旅人の悲しみ

吾妹子之わぎもこが 見師鞆浦之みしとものうらの 天木香樹者むろのきは 常世有跡とこよにあれど 見之人曽奈吉みしひとぞなき

いとしい妻が往路に見た鞆の浦のむろの木は、まったく変わらずあるのに、見た妻は今はもういない。

これは大伴旅人おおとものたびとが詠んだ和歌です。大伴旅人は、飛鳥から奈良時代にかけての政治家で、詩人でもありました。彼が作ったこの和歌は、万葉集という詩集に収録されています。

727年(神亀4年)、太宰府の長官に赴任する時、旅人は妻の大件郎女おおとものいらつめとともに鞆の浦の天木香樹にお参りしたのでしょう。航海の安全か、11歳になる子の大伴家持おおとものやかもちの成長を祈願したのでしょうか。

そして、730年(天平2年)、任期を終えて大納言となって都に帰る途中、この和歌を作りました。 実は、728年(神5年)に太辛府で妻を失っていたのです。

彼は、妻と一緒に見た鞆の浦の木、天木香樹を思い出しながら、和歌を詠みました。この木は、彼が妻を亡くした後も変わらずにそこに立っていました。しかし、その木を一緒に見た彼の妻はもういない。その悲しみを和歌に込めています。

この和歌は、大伴旅人が妻を亡くした悲しみや、その後の生活の困難さを表しているのかもしれません。そして、この和歌を詠んだ翌年、大伴旅人は亡くなりました。

大伴旅人はどんな人?

大伴旅人おおとものたびとは、飛鳥から奈良時代にかけての政治家であり、大将軍としての業績を残した歌人です。父は妻は大伴安麻呂おおとものやすまろ大件郎女おおとものいらつめ、子は大伴家持おおとものやかもちです。

大伴旅人は、711年に従四位下という高い地位につき、そして724年には聖武天皇が即位したときに、さらに高い地位である正三位に任命されました。728年には九州地方の政治を統括する太宰府の長官に任命されました。この大宰府は、今の福岡県太宰府市にあります。彼が詠んだ和歌の多くは、太宰府にいた時に詠まれたものだと言われています。

2019年5月から令和となりましたが、「令和」の名前は大伴旅人が詠んだ「万葉集」の「梅花の歌」から取られました。この中にある「初春の令月にして、気淑く風和ぎ」という表現から、「令和」の二文字が取られました。これは、新しい時代の始まりとしてふさわしいと判断されたからです。また、「令和」には「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味が込められています。これは、一人一人が希望を持ち、花を咲かせられる国にしたいという願いが込められています。このように、「令和」は日本の古典である「万葉集」から取られ、新しい時代への願いを表現しています。

天木香樹は神木とされている木

天木香樹むろのきというのは、無呂杜松や這杜松という木の古い名前です。この木は鞆の浦をはじめ瀬戸内地方にたくさん生息しています。『福山志料』という本では「この木よき香あり」として、神木と記しています。

また、福山市無形文化財である「お手火神事」では、お手火に8本のムロノ木が巻き付けられます。

歌碑

この和歌の歌碑の場所は、広島県福山市鞆町の対潮楼石垣下バラ園内にあります。1964年に設置されました。揮毫は当時の福山市長・徳永豊です。

参考URL

歌詳細 | 万葉百科 奈良県立万葉文化館

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