深津の歴史と文化を探訪します。万葉集にも登場する深津、古代の深津山、中世の米座、市場、鍛冶屋谷、そして現代の深津までを紹介します。
万葉集にも出てくる「深津」の名前
万葉集の第11巻にある柿本人麻呂が歌った句「路の後深津島山しましくも君が目見ねば苦しかりけり」に「深津」が登場します。現代語訳すると「備後国の深津の島山、しばらくもあなたにお逢いしないので落着かないことだ」になります。この歌碑は蔵王憩いの森にあります。
古代の深津は、蔵王山から伸びる丘陵地帯が瀬戸内海に突き出た半島で、「深津山」や「深津半島」と呼ばれていました。
中世の賑わい「米座」「市場」「鍛冶屋谷」
中世に米などの物資が集まった名残である地名が今も残っています。米座、市場、鍛冶屋谷などの地名が残っています。多くの商人が集まり、活気のある市街地を形成し、米や塩、魚介類などを売り買いする人々で賑わっていたと考えられています。
その時代に深津村市場に無量寺が創建されましたが、深津とともに衰退します。
干拓事業以降の深津
江戸時代に福山藩が干拓事業を行う際に、水野勝成が無量寺を再興し遍照山光明院と改めたとされています。
現在は旧国道2号、笠岡街道として親しまれています。
地図
米座の地名を残す「米座倶楽部」という場所の住所は、広島県福山市東深津町7丁目8-21です。
高野山真言宗遍照山光明寺の住所は、広島県福山市東深津町7丁目12-28です。
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