対潮楼(1)歴史と文化が交差する場所

福山市の文化

広島県福山市鞆町には対潮楼という建物があります。今回は対潮楼と福禅寺の歴史と建築について、対潮楼が福島正則によってどのように利用され、城郭としてどのような役割を果たしていたかについて、朝鮮通信使と対潮楼との関わりや、その交流の歴史について、対潮楼がどのように学びや文化の鑑賞の場として利用されてきたかについてご紹介します。

対潮楼と福禅寺:歴史と建築

対潮楼という建物は、福禅寺というお寺の一部として作られました。福禅寺は、広島県福山市鞆町にあります。このお寺は、真言宗大覚寺派という宗派の仏教寺院で、「海岸山」や「千手院」という名前も持っています。

対潮楼の建物は、「書院造り」というスタイルで作られています。書院造りとは、室町時代に発展した日本の家の形で、書斎や客間などが一緒になった形を指します。

対潮楼は、岩の上に石垣を積んで作られています。その周りの岩を見ると、貝殻が残っているのが見えます。これは、昭和30年代に埋め立てられた今の県道が、以前は波が打ち寄せる海岸だったことを示しています。

対潮楼と福島正則:城郭としての役割

対潮楼は、福島正則という人が作った鞆城の丘陵の南端にあります。福島正則は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名で、豊臣秀吉の五奉行の一人でした。対潮楼は、城の一部として、遠くを見るための場所の役割も持っていました。対潮楼の周りの地名は今でも「古城跡」と呼ばれています。また、対潮楼の周りの石垣は、江戸時代初期の福島時代に作られたもので、三角印などの印が入っています。

対潮楼と朝鮮通信使:交流の歴史

1711年に、朝鮮通信使という使節団の正使である趙泰億、副使の任守幹、従事官の李邦彦など8人の上官が対潮楼に立ち寄りました。趙泰億と李邦彦は朝鮮の文官で、1711年に朝鮮の肅宗という王によって通信正使として任命され、日本を訪れました。朝鮮通信使とは、朝鮮王朝と日本の将軍家との間で行われた公式の使節交流を指します。彼らは、対馬から江戸までの間で対潮楼が最も景色が良いと評し、李邦彦は「日東第一形勝」の書を残しました。

江戸時代を通して、対潮楼は朝鮮通信使の上官の常宿となっていました。1748年に宿泊した正使の洪啓禧は、瀬戸内を眺望できるこの座敷を対潮楼と命名し、その息子の書家、洪景海が力強い書を残したことから、対潮楼として有名になりました。

対潮楼と文化:学びと鑑賞の場

福山藩や菅茶山などは、通信使の書を版木や座敷掛けの木額などにしました。また、福山藩の学者、江木鰐水は、漢詩の作り方や書を学ぶために藩校の誠之館の塾生を引率し、対潮楼で移動教室をたびたび開講しました。

江戸時代からこの美しい景色を眺めに多くの旅人が訪れました。座敷に掛けている額を鑑賞し、漢詩や書を楽しむ人たちもおられます。このように、対潮楼は多くの人々に愛されてきた場所なのです。

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