室町幕府と鞆・山田・津之郷・蔀山・赤坂

室町幕府と鞆・山田・津之郷・蔀山・赤坂 福山市のエトセトラ

足利尊氏と足利義昭の広島県福山市での歴史を探ります。尊氏が鞆にて院宣を受け、義昭が鞆などで模索した様子と場所を詳細に解説します。

足利は鞆で興り、鞆で滅びた

「足利は鞆で興り、鞆で滅びた」とは、幕末の歴史家・頼山陽の喩えです。足利尊氏が鞆にて院宣を受けたことが室町幕府の始まりであることと、足利義昭が京を追放され鞆などで模索したのち将軍職を返上したことをさします。

足利尊氏と鞆

足利尊氏は、京へ向かう途中、鞆にて光厳上皇より「新田義貞の追討を命じる」との院宣いんぜんを受けました。院宣とは、院司が上皇や法皇の命令を受けて出す私的な文書のことです。現代に例えるなら、宮内庁の職員が上皇から言われたことを公ではなく個人的に伝えているようなものです。その後、足利尊氏を将軍として室町幕府が始まりました。

足利義昭と鞆・山田・津之郷

それからおよそ200年後、最後の将軍・足利義昭は、織田信長によって京から追放され、毛利輝元を頼ってとも・現在の広島県福山市鞆町に御座所をうつして、京への帰還や信長追討を目指しました。その後、山田やまだ・現在の広島県福山市熊野町と津之郷つのごう・現在の広島県福山市津之郷町を御座所としていた時期もありました。豊臣秀吉が関白となった後、津之郷の田辺寺でんべいじで再会し、その年に京に帰還しました。

足利義昭と蔀山・赤坂

福山市には他にも足利義昭ゆかりの場所があります。蔀山しとみやま・現在の広島県福山市西深津町には足利義昭居館跡が、赤坂あかさか・現在の広島県福山市赤坂町赤坂には足利義昭の墓があります。

地図

足利義昭が御座所としていた鞆にあった鞆要害の場所は、広島県福山市鞆町後地7536-1付近です。

足利義昭が御座所としていた山田にあった一乗山城跡の場所は、広島県福山市熊野町甲1481付近です。

足利義昭が御座所としていた津之郷にあった足利義昭公居館跡の場所は、広島県福山市津之郷町津之郷1372です。

豊臣秀吉と再会した田辺寺の場所は、広島県福山市津之郷町888です。

足利義昭が御座所としていたとされる蔀山稲生神社(伝 足利義昭居館跡)の場所は、広島県福山市西深津町4丁目1付近です。

足利義昭の墓とされる伝・足利義昭の墓の場所は、広島県福山市赤坂町赤坂7924-1付近です。

コメント

タイトルとURLをコピーしました