対潮楼(2)朝鮮通信使の役割と歴史

福山市の文化

広島県福山市鞆町には対潮楼という建物があります。今回は江戸時代の日本と朝鮮の友好関係と朝鮮通信使について、朝鮮通信使の到着と日本での歓迎の様子について、福山藩が朝鮮通信使の食事準備に苦労したことについて、朝鮮通信使の宿泊施設と夜の様子について、現在の対潮楼についてご紹介します。

江戸時代の日朝友好関係と朝鮮通信使

江戸時代の李氏朝鮮は、オランダや中国のような通商だけの相手国ではなく、正式に国交のある善隣友好の国でした。そして、朝鮮通信使は、政治・経済・文化の交流使節団でもありました。朝鮮通信使とは、朝鮮半島から日本へ派遣された公式の使節団で、主に政治的なメッセージを伝えるために使われました。

朝鮮通信使の到着と歓迎の様子

朝鮮通信使は、5艘、500人ほどの人々で構成されていました。彼らが日本に到着すると、日本側では対馬藩が50艘、500人の人々を動員して、朝鮮通信使を迎え入れる役割を果たしました。さらに、福山藩では、料理人や給仕人など1,000人もの人々が動員され、朝鮮通信使を歓迎しました。その結果、鞆の津という狭い場所には、合わせて2,000人が集まり、大変賑やかな様子となりました。

福山藩の食事準備の苦労

福山藩では、朝鮮通信使のための食事の準備に大変な努力をしていました。特に、肉類の確保が難しかったようです。鶏やきじ(雉)、鶴、猪(イノシシ)、鹿などを用意するようにと村々に指示を出しました。しかし、村々からは、「智者茂無御座候ちえしゃもござなくそうろう」という報告が来ました。これは、生け捕りが難しいという意味で、肉類の確保が思うように進まなかったことを示しています。

朝鮮通信使の宿泊施設と夜の様子

朝鮮通信使が泊まる場所は、寺院や商家でした。しかし、上位の役職にある人々、例えば「三使」などは、「対潮楼」という場所に泊まりました。対潮楼への道のりは、毛せんやむしろを敷きました。筵は全部で3,500枚も用意されました。さらに、5歩ごとに大きな提灯が竿にかけられ、「夜を視ること昼のごとし」というほど、夜でも明るく照らされていました。

現在の対潮楼

現在、「対潮楼」は朝鮮通信使の博物館としての機能もあります。座敷には木製の額や版木が飾られています。1748年に来た朝鮮通信使の洪啓禧は、「先輩は舟に乗ってここに来て、この楼のすばらしさを楽しんだ」という詩を残しています。座敷から見える景色は当時のままで、朝鮮通信使がどのような気持ちでいたのかを感じることができます。

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